【川崎大師 平間寺の概要と歴史】
神奈川県川崎市川崎区大師町に位置する真言宗智山派の大本山 川崎大師 平間寺は、高尾山薬王院、成田山新勝寺と並ぶ関東三代本山の一つとして知られています。古くから「厄除けのお大師さま」として全国から篤い信仰を集めており、初詣には例年全国トップクラス(約300万人以上)の参拝客が訪れる、日本を代表する名刹です。
【歴史と由来】平安時代末期の創建より厄除け大師として信仰を集める名刹
神川崎大師 平間寺(かわさきだいし へいけんじ)は、平安時代の最末期である大治3年(1128年)、無実の罪で流浪していた武士・平間兼賢(ひらまかねかた)が海中から引き揚げた弘法大師像を、尊賢上人とともに祀ったことに始まる名刹です。江戸時代の文化10年(1813年)、徳川第11代将軍・徳川家斉公が50歳の厄年に参詣したことから「厄除けのお大師さま」として江戸中で爆発的な信仰を集めました。以下に詳細を記載しています。

尾張国(現在の愛知県)の武士であった平間兼賢(ひらまかねかた)は、無実の罪によって、先祖代々受け継いできた尾張の領地を没収されてしまいました。そのため、故郷に居られなくなり、各地を流浪した末に、当時はまだ寂しい漁村だった川崎の地にたどり着き、武士の身分を捨てて漁師として貧しく暮らすことなりました。
無実の罪が晴れることを願い、熱心に弘法大師を信仰していた兼賢はある夜、夢の中で一人の高僧から神託を受けます。兼賢が夢のお告げに従って現在の川崎の海に網を投じたところ、まばゆい光を放つ弘法大師の木像が引き揚げられました。兼賢はこのお像を大切に祀り、毎日お供えをして祈りを捧げました。
その後、高野山から諸国を巡礼中だった真言宗の高僧・尊賢上人(そんけんしょうにん)が川崎を訪れた際、兼賢が祀る弘法大師像の霊験に深く感銘を受け大治3年(1128年)、尊賢上人と平間兼賢は力を合わせ、このお大師さまを御本尊とする一棟の寺院を建立しました。これが現在の平間寺の始まりです。
寺が建立された数年後の1134年(長承3年)、ついに兼乗の冤罪が完全に晴れ、青天白日の身となったのです。晴れて故郷の尾張国へ武士として復帰することができた兼乗は、感謝のしるしとして、与えられた給料の半分をこのお寺に寄進しました。
川崎大師が現在のような「全国屈指の厄除け霊場」として大隆盛するきっかけとなったのは、江戸時代後半の文化10年(1813年)のことです。
徳川幕府の第11代将軍・徳川家斉(いえなり)が、自身の厄年(50歳)にあたって川崎大師へ公式に参拝(将軍家参詣)し、大規模な厄除け祈祷を受けました。
これにより、「将軍様も認めた強力な厄除け大師」として江戸の庶民の間で爆発的な川崎大師ブームが巻き起こります。当時、江戸から川崎大師へお参りする「大師詣(だいしみょうじ)」は、一種の一大観光地として定着し、東海道川崎宿や門前町は大いに賑わいました。
明治時代以降も、日本初の電気鉄道(現在の京浜急行電鉄の大師線)が川崎大師への参拝客を運ぶために敷設されるなど、関東屈指の聖地として発展を続けました。
しかし、昭和20年(1945年)4月の川崎大戦災により、境内のほぼすべての伽藍(堂宇)が灰燼に帰してしまいます。それでも、御本尊の弘法大師像は信徒や僧侶たちの手によって無事に守り抜かれました。戦後、全国の信徒からの篤い寄進によって「大本堂」をはじめとする壮麗な伽藍が次々と再建され、現在の圧倒的なスケールへと見事な復興を遂げました。
【ご本尊とご利益】弘法大師空海尊像が授ける厄除け・開願成就・家内安全のご利益
ご本尊は、真言宗の開祖である弘法大師 空海(こうぼうだいし くうかい)を祀っております。海から引き揚げられた伝説の木像が、現在も大本堂の奥深くに秘仏として大切に祀られています。川崎大師の最大のご利益は、何と言っても強力な「厄除け(厄払い)」です。開基である平間兼乗が「無実の罪(厄災)」を乗り越えて見事に復活したという歴史から、あらゆる災難を払い、人生を好転させるお力があると信じられています。
これに付随して、以下のような多岐にわたるご利益を授かることができます。
- 厄除け・災難除け: 厄年の方の不運を払い、平穏な日々をもたらします。
- 家内安全: 家族全員が病気や怪我なく、健康に暮らせるよう守護します。
- 開運満足: 運気を切り開き、願い事を成就させます。
- 商売繁盛・事業繁栄: 門前町の商人たちをはじめ、多くの経営者から篤く信仰されています。
- 交通安全(自動車祈祷): 境内には日本初の「自動車交通安全祈祷殿」があり、車とドライバーの安全を祈る場所として非常に有名です。
【川崎大師 平間寺の見どころ&参拝順序】
【仲見世通りと参道】名物の久寿餅やトントコ飴の店が並ぶ賑やかな道筋

仲見世通り(なかみせどおり) は、川崎大師(平間寺)の「大山門」へと続く江戸時代からある参道です。約150メートルの通りには、名物の飴、久寿餅、ダルマなどを扱う老舗がびっしりと立ち並び、いつも多くの参拝客で賑わっています。

仲見世通りを歩くと、まず耳に飛び込んでくるのが「トントコ、トントコ」という軽快なリズムの音です。これは名物の飴を包丁でリズミカルに切る音で、川崎大師の風物詩となっています。 さらし飴や、せき止め飴が有名で熟練の職人が飴を細長く伸ばし、まな板の上で一瞬にして切り分けていく職人技は必見です。
【大山門】四天王像が境内を守護する重厚な山門
大山門(だいさんもん)は、仲見世通りの賑やかな街並みを抜けた先に堂々とそびえ立つ、川崎大師 平間寺の正門(総門)です。

現在の大山門は、昭和52年(1977年)に弘法大師開創850年の記念事業として落成した、比較的新しくも非常に重厚な建物です。堂々とした2階建ての「楼門(ろうもん)」形式で、入母屋造り(いりもやづくり)の本瓦葺きとなっており、京都や奈良の古刹にも引けを取らない巨木を用いた総カヤブキ風の佇まいが、訪れる参拝者を圧倒します。


一般的なお寺の山門には「仁王像(金剛力士像)」が祀られることが多いですが、川崎大師の大山門には、仏教の守護神である「四天王(してんのう)」像が4方向すべてを固めています。


大山門の中央に掲げられている、ひときわ目を引く真紅の大提灯は、川崎大師の象徴的なビジュアルの一つです。

浅草・浅草寺の雷門を彷彿とさせるこの大提灯には、大きく「魚がし(うおがし)」の文字が刻まれています。これは大正時代から続く東京・築地(現在の豊洲)の魚河岸講の信徒たちから奉納されたもので、門前の荘厳な雰囲気に華やかな江戸の粋を添えています。

大山門をくぐると、いよいよ正面に広大な境内と大本堂が姿を現します。
【大本堂と経蔵】ご本尊を祀る本堂と美しい天井画が広がる経蔵

大本堂(だいほんどう)は、昭和20年の川崎大空襲による焼失を経て、昭和38年(1963年)に再建されました。日本に仏教が伝来した初期の「飛鳥様式(あすかようしき)」を模した、重厚な鉄筋コンクリート造りです。

屋根の美しい曲線や、堂々とした柱の並びは、現代建築の技術と古代の仏教美学が見事に融合した昭和の名建築として高く評価されています。

川崎大師 経蔵(きょうぞう)は、大本堂の正面に向かって左側に佇む、仏教の経典(お経)を納めるためのお堂です。平成16年(2004年)の大開帳奉修記念事業として建立されました。この経蔵が落成したことによって、主要な建物がそろう「七堂伽藍(しちどうがらん)」が文字通り完成し、川崎大師の戦後復興事業の集大成となった極めて重要な建造物です。

経蔵の中には、中国最後の木版大蔵経(だいぞうきょう)とされる『乾隆版大蔵経(けんりゅうばんだいぞうきょう)』全724函、計7,240冊が整然と収蔵されています。仏教のすべての教えが集約された膨大な経典が美しく並ぶ光景は、一歩足を踏み入れた瞬間に息をのむほどの神聖な迫力があります。
【祈りと平和の像】世界の平和を願って建立された金色の群像
「祈りと平和」の像は、川崎大師(平間寺)の八角五重塔のすぐそばに佇む、眩い金色に輝く美しい記念碑です。昭和59年(1984年)、宗祖である弘法大師の「1,150年御遠忌(ごおんき)」と、10年ごとに一度訪れる「吉例大開帳奉修(大開帳)」を記念して境内に建立されました。

制作を手がけた圓鍔勝三(えんつばかつぞう)は、のちに最高栄誉である文化勲章を受章する、昭和を代表する日本の天才彫刻家です。制作者の圓鍔氏は広島県(現在の尾組市)の出身で、戦時中に川崎で暮らしていた際に、故郷・広島への原爆投下を知り、生涯にわたり深く大きな衝撃を受けました。 川崎大師もまた、川崎大空襲によって全てを失った過去を持つため、「もう二度と戦火の悲劇を繰り返さない、永遠のやすらぎと恒久平和を願う」というお寺の強いメッセージが、圓鍔氏の芸術的な美学と見事にシンクロして誕生したのが、この「祈りと平和」の像なのです。
【不動堂と八角五重塔】不動明王を祀るお堂と包容力を象徴する美しい塔
川崎大師(平間寺)の不動門(ふどうもん)は、大本堂に向かって右奥のエリア、成田山新勝寺のご分躰を祀る「不動堂」の正面に佇む、極めて歴史的価値の高い木造の門です。

昭和20年(1945年)4月15日の川崎大空襲により、川崎大師はほぼすべての伽藍を焼失してしまいました。焦土と化したお寺を蘇らせるべく、第43世貫首である隆超大僧正(りゅうちょうだいそうじょう)が戦後まもない昭和23年(1948年)、福島県の有縁の地(一説には寺院の門)からこの門を譲り受け、境内に移築しました。当時は現在の「大山門」がない時代だったため、この移築された門が川崎大師の正門(山門)の跡地に建てられ、参拝客を迎える臨時の正門として長らく活躍しました。

この門をくぐった先にある「不動堂」は、成田山新勝寺の御本尊のご分躰を勧請して祀っており、「武相不動尊霊場第1番札所」および「関東三十六不動霊場第7番札所」に指定されています。門を抜けると五重塔やお堂が正面に見えてきます。

八角五重塔(はっかくごじゅうのとう)は、大本堂の向かって右側にそびえ立つ、川崎大師の境内でもっとも華やかで美しいシンボル的建造物です。昭和59年(1984年)に、弘法大師の「1150年御遠忌(ごおんき)」を記念して落成しました。その名の通り、上から見ると「八角形」という非常に珍しい形をしており、昭和の仏教建築の最高峰とも称されています。

日本にある五重塔のほとんどは「四角形(方四クラス)」ですが、川崎大師の塔は全国でも極めて珍しい八角形の構造を採用しています。八角形は「四方八方」を表し、「すべての人々を漏らさず救い、包み込む」というお大師さまの広大な慈悲の心を象徴しています。また、角が増えて円に近づく八角形は、仏教において「最高に調和がとれた状態(円満)」を意味し、縁起が良い形とされています。

不動堂(ふどうどう)は、明治23年(1890年)に創建されましたが、昭和20年(1945年)4月の戦災で焼失。現在の建物は昭和39年(1964年)4月に再建された鉄筋クリート単層入母屋造り・向拝唐破風付のお堂です。千葉県にある成田山新勝寺の御本尊である不動明王の御分躰(ごぶんたい)を勧請してお祀りしています。
【弘法大師遍路尊像と鐘楼堂】お砂踏みができる修行大師像と歴史ある鐘楼

八角五重塔の近くに佇む「弘法大師遍路尊像(こうぼうだいしへんろそんぞう)」は、全国を旅して民衆を救ったお大師さまの姿を伝える像です。

昭和48年(1973年)の「弘法大師ご誕生1200年」の記念事業として建立されました。網代笠(あじろがさ)をかぶり、わらじを履いて金剛杖(こんごうづえ)を手に修行(巡錫・じゅんしゃく)をされているお姿が、今にも動き出しそうなほど躍動的に表現されています。

参拝方法は、お像の足元に置かれた柄杓(ひしゃく)を使い、お大師さまの足元にお水をかけて手を合わせます。

鐘楼堂(しょうろうどう)は、八角五重塔の手前あたりに佇む、大晦日の「除夜の鐘」で全国的に知られる神聖なお堂です。川崎大師は昭和20年の空襲で建物の多くを焼失しましたが、この鐘楼堂に掛けられている梵鐘(ぼんしょう=お寺の鐘)は、奇跡的に戦火を免れた貴重な文化財です。

大晦日の夜、境内が初詣の参拝客で埋め尽くされる中、午前0時ちょうどに最初の鐘(一番鐘)が鳴り響きます。テレビの「ゆく年くる年」などでも度々生中継され、川崎大師の除夜の鐘の音は、新年の幕開けを告げる「初夜(初だるま)の風物詩」として広く親しまれています。
【しょうづかの婆さんと北の湖像】歯痛平癒・美髪の信仰と昭和の大横綱像

しょうづかの婆さん(葬頭河の婆さん)は、川崎大師(平間寺)の境内、西解脱門(大本堂の左手奥)の近くにある小さな御堂に祀られている石像です。
「葬頭河(しょうづか)」とは、仏教において現世とあの世を分ける「三途の川(さんずのかわ)」のことを指します。
つまり、このお婆さんの正体は、三途の川のほとりで亡くなった人の衣服を剥ぎ取るという伝説の老女、「奪衣婆(だつえば)」です。一見すると恐ろしい地獄の番人のようですが、民間信仰においては「衣服を剥ぎ取る=悪業や災い、病気の原因を綺麗に剥ぎ取ってくれる」と解釈され、いつしか優しく庶民を救済するお婆さんとして親しまれるようになりました。
川崎大師のしょうづかの婆さんには、他の寺社にはない個性的なご利益が伝えられています。昔は現代のように良い歯医者や痛み止めがなかったため、人々は「歯の痛み」にひどく苦しんでいました。しょうづかの婆さんは、その激しい歯痛をたちどころに止めてくれる神様として大ブームを巻き起こしました。また、「剥ぎ取る」お力を持っていることから、現代では「肌の角質やシミ、悪運を剥ぎ取り、美しい素肌や容姿を授けてくれる」という、美容の守護神としても信仰を集めています。

川崎大師(平間寺)の八角五重塔の正面近くに佇む、昭和の大横綱であり日本相撲協会の前理事長であった北の湖(本名:小畑敏満)を偲んで建てられた見事な銅像です。横綱昇進時の化粧回しや、1977年に全勝優勝を飾った際の優勝額を川崎大師に奉納しており、親方のお墓も川崎大師の墓所にあります。2015年11月に62歳で急逝した親方の三回忌(2017年10月1日)に際し、妻のとみ子夫人ら親族からの奉納と、お寺側の賛同によってこの銅像が建立されました。
【つるの池と薬師殿】朱色のやすらぎ橋が架かる池と薬師如来を祀るお堂
つるの池(鶴の池)は、大本堂から薬師殿へ向かう際に広がる、四季折々の自然と仏教の深いメッセージが融合した境内随一の癒しのスポットです。

池をまたぐように架けられた、朱色と金色の欄干が美しく輝く「やすらぎ橋」の欄干には、仏教において仏の智慧や慈悲を表現する「梵字(ぼんじ)」が刻まれています。この橋を渡ることは、私たちが暮らす迷いや苦しみの世界から、仏様が待つ悟りとやすらぎの世界(彼岸・ひがん)へと進むことを意味しており、歩くだけで心が清められるとされています。池の中には、たくさんの色鮮やかな錦鯉が優雅に泳いでいます。

つるの池のほとりには、金色に輝く神聖なお釈迦様(釈尊)のブロンズ像が安置されています。この像は、お釈迦様が厳しい修行の末に、心の中に現れた様々な誘惑や悪魔を退け、ついに本物の悟りを開いて「真の平和とやすらぎ」を得た瞬間(降魔成道・ごうまじょうどう)のお姿を表現しています。この像の前で静かに手を合わせることで、自身の心の迷いや邪念を払うことができると言われています。この先に薬師殿があります。

薬師殿(やくしでん)は、「世界人類の健康と平和」を祈る異国情緒がある祈願所です。昭和38年(1963年)に弘法大師のご生誕1200年を記念して建立され、平成20年(2008年)に現在の壮麗な姿へと開創されました。川崎大師の境内にありながら、日本の伝統的なお寺とは一線を画す仏教の生誕地であるインドの伝統的な仏教建築様式(織物や石窟寺院の意匠)を取り入れた、東洋風な雰囲気が特徴です。

各所お堂への参拝、お護摩祈祷の力強い熱気、仲見世通りの賑わいを楽しんだあと、このつるの池のほとりにあるベンチに腰掛け、鯉の泳ぐ姿や水のせせらぎを眺めながら一息つくのが、参拝客の定番の過ごし方のようでした。
【川崎大師 平間寺 御朱印】


【川崎大師 平間寺の現地参拝レポート&評価】
川崎大師 平間寺 現地レビュー・評価スコア
| 評価項目 | スコア | 特徴・ワンポイント |
|---|---|---|
| アクセス | (5.0) | 京急大師線「川崎大師駅」または「東門前駅」より徒歩約8分。活気溢れる表参道商店街を通るアクセス抜群の立地 |
| 規模 | (4.5) | 壮大な大本堂、四天王を祀る大山門、鮮やかな八角五重塔、インド風建築の薬師殿や不動堂が立ち並ぶ圧巻の大伽藍 |
| 歴史・由緒 | (4.0) | 大治3年(1128年)創建。江戸時代に徳川第11代将軍家斉公が厄除け参詣したことで「厄除け弘法大師」として全国に轟く大名刹 |
| 自然・景観 | (3.5) | 朱塗りのやすらぎ橋と池庭、八角五重塔の美景、隣接する大師公園の緑と調和した豊かな山内景観 |
| 静けさ | (3.0) | 初詣や護摩祈祷、トントコ飴の音が響く参道は賑わうが、広大な境内奥や薬師殿周辺では穏やかに参拝できる環境 |
| 御朱印種類 | (3.0) | 大本堂の「弘法大師」をはじめ、不動堂・薬師殿・自動車交通安全祈祷殿などのお堂ごとに数種類の御朱印が授与される |
現地レポ|実際に訪れた感想
川崎大師は、ただ「お参りをして終わり」にするにはあまりにももったいない、圧倒的な奥深さと人を楽しませる魅力を秘めた巨大な聖地でした。
大本堂から湧き上がるお護摩の地鳴りのような太鼓の音、天を突く朱色の八角五重塔の美しさ、そして「しょうづかの婆さん」や「長十郎梨の碑」といった境内の隅々に隠された珍しい歴史の数々。一歩奥へ進むたびに新しい発見があり、次はどこを巡ろうかと心が躍るほど、とにかく見どころの尽きない立体的な魅力に溢れています。
そして何より心に響くのは、この壮麗な大伽藍(だいがらん)が、かつて川崎大空襲によってすべてを失った焦土から、人々の「復興への祈り」だけで見事に蘇ったという歴史の重みです。戦火を耐え抜いた渋い不動門や鐘楼堂が、現代の立派な本堂と違和感なく調和して佇む姿からは、この街に生きる人々の不屈の生命力と、お大師さまへの並々ならぬ愛着がひしひしと伝わってきます。
門前町の活気ある売り声に元気をもらい、大迫力の炎に圧倒され、水辺の静寂に癒やされ、知る人ぞ知る霊場に願いを託す。ここは、個人の「厄除け」という枠を遥かに超えて、訪れる者すべての五感を満たし、明日を生きる活力を与えてくれる、まさに「体験の宝庫」とも言える霊験あらたかな場所です。
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